誰が生命を決めるのか
アメリカの連邦最高裁で、胎児が外界で生存できない時期の人工妊娠中絶は違憲ではないとする判例を覆す判決が出た。これでアメリカの各州政府は人工妊娠中絶を禁止する州法を設定できるようになった。
アメリカでは保守派の多くが「生命は神が与えたもの」というキリスト教の教義から人工妊娠中絶は殺人であり行われてはいけないと考えており(プロライフ)、一方のリベラル派は妊娠を継続するかどうかは女性が選択すべきことだと考えている(プロチョイス)。保守派が多い州は今回の判決を歓迎し、人工妊娠中絶を禁止する州法を施行済みである。現時点では50州のうち15の州で完全禁止で罰則規定ありとなっている。2つの州で胎児の心拍が確認された時点で禁止とされているので完全禁止と同じと考えてよいだろう。
人工妊娠中絶を完全禁止する州では、たとえ妊娠が性暴行や近親相姦によるものであっても「生命が与えられたということはそれが神の意思だから妊娠中絶は許されない」と考える。それらの州であっても多くは母体に生命の危機がある場合に限って可能とされているのだが、それが具体的に何を指しているのかが制定されていないところにきて人工妊娠中絶を施術する医療者への重罪罰則規定が決められているために、「このままだと母体の生命にかかわる」では不十分で、「妊婦が本当に死にかけている」でない限り医療者が介入に踏み切れないというようなことが起きている。
それまで私はアメリカの保守派は「政府が個人の自由を阻むべきではない」と考える人たちだと考えていた。古くはシートベルトの着用が義務化された際に「シートベルトを着けるかどうかは個人の自由のはずだ」と吠えてみたり、最近だと新型コロナが蔓延した時に州政府が「公共の場ではマスクを着用すること」と定めた際に「政府の言うことには従わない」と着用を拒否したり(うちの病院でも入り口でマスクを着けてくださいと言われて暴れて警備員につまみ出された患者さんとかマスクを着けるくらいならお前らなんかにかかるかと帰宅した患者さんが何人かいた)、まあこの人たちは安全とか公共の福祉とかいうことよりも自分が好きにすることが大事なんだな、と思っていた。
でも今回の話はもう全然がっつり「権力を駆使して個人の自由を制限する」という類のことだ。人工妊娠中絶それ自体が推奨されるべきことだとは思わないが、それを選択せざるを得ない状況が人生にはある。私の母は初めての妊娠中に大きな病気が判明したために胎児をあきらめざるを得なかった。この時に「人工妊娠中絶は殺人だからしてはいけない」などという法律があれば母は胎児もろとも死んでいただろうが幸いそんなものはなかったので生き延びて、その後治療を受けて完治した後に私を含む子どもを産んだ。
王子は原理主義的キリスト教徒なのでこの判決を喜んだ。だから聞いてみた。「それでは、たとえば私が誰かから性的暴行を受けて妊娠しても中絶はしてはいけないと言うつもりか」。王子は言った。「養子に出す、という選択はできないか」
「あなたは妊娠がどんなことかわかっていない。女性は9か月間、すべてを与えて胎児を育てる。それは決して楽なことではないけど、自分が選んだ男性の子供だからこそ女性はそれをするんだ。私だってあなたの子供だったら何を犠牲にしてでも産むよ。でもね、強姦されるだけでも人生が変わるようなことなのに、そんな世界で一番嫌いな男の子どもを胎内で育てろ、中絶は殺人だというなら私は殺人者でかまわない。私は胎児を道連れにして死ぬことを選ぶ。それに、世の中には父親や兄弟に性的虐待を受けて望まない妊娠する女性がいる。そういった妊娠は遺伝子学的に望ましくないが、望まない妊娠継続を強制されなければならないのか。私だって中絶を推奨しはしないが、必要な場合がある」
王子はどうやら「それだって神の意思だ」とは思わなかったようで、「そういうケースは…そういう場合でも違法だとする州はいくつあるんだろう」と言葉を濁した。
「それに、中絶を禁止しても闇医者に行く女性も、自分で堕胎を試みる女性も必ず出てくる。そしてそのために命を落とす女性も出てくる。女性の生命だって尊重されるべき生命なんじゃないの」これには王子は答えなかった。
妊娠は神の意志で起きること、中絶は許されないという原則が大切すぎて、それが現実世界でどんな意味を持つのかを考える想像力がまるごと抜け落ちている王子が情けない。だいたい神の意思って言うけどさ、妊娠って基本的に妊娠可能な年齢の女性がやることやったらある程度の確率で起きる事象だから。それこそうちの母(80代、心臓の持病持ち)がある日妊娠して十月十日後に元気な男の子を産みました、みたいな話なら、おお、神の業だー、って思うだろうけど。
最近のコメント